讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

6.われらは信ず(1)

「…ニカイア信条は『我らは信ず』という言葉で始まります。出だしの言葉自体がこの信条全体の頌栄的な性格をよく表していると思います。」

カトウ:
いよいよニカイア信条の本文です。
でも、「我らは信ず!」がショウエイ的ってどういう意味なのかな?

 

ナカガワ:
礼拝の中の「頌栄」は、いわゆる讃美ですよね。

 

カトウ:
了解!力強く歌うように、私たちはこう信じているぞー!とやるんだね?
「我らは♪ 信ず♪〜」って。

 

ナカガワ:
…。
でも、そのノリって続かないんだよね。信仰って頑張りじゃないと思うし…。


カトウ:
そうでした…。
すぐ燃料切れになって、結局「何やってんだろ、自分」ってなっちゃうよね。

 

ナカガワ:
そうそう。人を裁いちゃったり…ね。
讃美とは逆方向にいっちゃうよね。

 

カトウ:
うーん。
でも、体が勝手に「信じるぞー!」になっちゃう…。

 

ナカガワ:
(染み付いているのかな…)でも、人間ってそういうところ誰でもあると思う。
皆さま、「信じる」が頌栄的ってどういうことか、ぜひ番組を聞いて一緒に考えてみてください。

 


讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)
関川泰寛(東京神学大学教授、日本基督教団大森めぐみ教会牧師)
お相手:吉崎恵子

6 われらは信ず(1)

聴取期限5/20
(約22分)


ニカイア信条(関川泰寛訳)
われらは信ず。唯一の神、全能の父、天と地、すべて見えるものと見えざるものとの創造者を。

われらは信ず。唯一の主イエス・キリストを。主は神の御(おん)独り子、よろず世に先立って、御父(みちち)より生まれ、光よりの光、真(まこと)の神よりの真(まこと)の神、造られずして生まれ、御父(みちち)と同質にして、万物は主にあって成れり。主はわれら人間のため、またわれらの救いのために天より降り、聖霊により、おとめマリアより肉体をとり、人となり、われらのためポンテオ・ピラトのもとに、十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って三日目によみがえり、天に上り、御父(みちち)の右に座したまえり。生ける者と死ねる者とを審(さば)くために、栄光をもって再び来たり給う。その御国は終わることがない。

われらは信ず。主にしていのちを与える聖霊を。聖霊は、御父(みちち)と御子(みこ)より出で、御父(みちち)と御子(みこ)と共に礼拝せられ、あがめられ、預言者を通して語られる。
われらは信ず。唯一の、聖なる、公同の使徒的教会を。われらは、罪の赦しのための唯一の洗礼に同意を表す。われらは、死人のよみがえりと来たるべき世の生命(いのち)とを待ち望む。