讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

27.葬られ、聖書に従って三日目によみがえり(2)

「毎年、神は自然の秩序の一部として葡萄酒をおつくりになります。すなわち、水と土壌と日光という素材を果汁に変えうる植物的有機体を創造なさることによって。その果汁が適当な条件のもとで、やがて葡萄酒になるのです。ですからある意味では、神はたえず水を葡萄酒に変えておられるわけです。なぜなら葡萄酒はすべての飲料と同じく、もとはと言えば水にほかならないからです。たった一度、ある年のあるとき、受肉の神はその過程を短縮なさり、一瞬にして葡萄酒をおつくりになりました。この場合には、その水の器として植物の繊維でなく土器をお用いになったのです。この場合、彼は神としてつねになさっていることを特定の場でなさるために、そうしたものをお用いになったのでした。」(C・S・ルイス)

 

カトウ:
これってイエス様が水瓶の水をぶどう酒に変えたカナの婚礼の奇跡のことだよね?
そして、今日のニカイア信条は前回に続いて「葬られ、聖書に従って三日目によみがえり」ってことは、もしや「奇跡」つながりってことなの??

 

ナカガワ:
うーん、イエス様の十字架と復活は奇跡って言えば奇跡なんだから間違いではないはずなんだけれども、どうしても違和感があるよね。

 

カトウ:
そうだよ。
今まで半年間ニカイア信条を学んできて、いつもいちばん大切なところにイエス様の十字架と復活があったんだから、単なる奇跡じゃありません。
スーパー奇跡です。

 


ナカガワ:
スーパー奇跡?(なんじゃそりゃ?)
けれども、違和感を感じるのは、逆だからかもしれないよ。

 

カトウ:
逆?

 

ナカガワ:
人間って、日常の、説明できることを超えた素晴らしい出来事を「奇跡」って呼ぶとしたら、イエス様の十字架と復活は、むしろその延長線上にはなくって、完全に神様の働きっていうのが聖書の証言でしょ?

 

カトウ:
そうそう、人間の常識や考えとは真逆の事柄だよね。
創造主なる神様が、ご自身の命そのものであるイエス様が人間の罪のためにご自身の命を与えつくしちゃうって、信じている今だって、正直理解を超えております。

 

ナカガワ:
そのイエス様の贖いのわざが、この世界を支えていて、すべての出来事がそこをベースに生まれているとしたら、僕達の日常の当たり前が当たり前じゃなくなるってことなんじゃないかな?

 

カトウ:
ウォー!ハレルヤ!アーメン!

 

ナカガワ:
えっ??いきなり、どうした?

 

カトウ:
だって、素晴らしいよ!この世界はイエス様の十字架と復活で創られているって。
ややこしい感じのルイスさんの説明も、なんとかしてこの素晴らしさを伝えたかったのかなって思うと、急に親近感出てきた!ウォー!

 

ナカガワ:
今日は何かワイルドね。

それはさておき、「葬られ、聖書に従って三日目によみがえり」っていう説明しようとするととても難しい事柄を関川先生もルイスさんも何とかして言葉にしようと試みる今回のお話。
でも、ちゃんと自分で考えて伝えようとしてみるって、これも愛を感じませんか?イエス様の福音に生かされる恵みじゃないかと。
皆さま、ぜひ放送をお聞きになって、自分ならどう考えなんと説明するか思い巡らしてみてください。
きっと見つかるはずです。
当たり前の中にある、主の十字架の恵みを。ウォー!

 


讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)
関川泰寛(東京神学大学教授、日本基督教団大森めぐみ教会牧師)
お相手:吉崎恵子

27 葬られ、聖書に従って三日目によみがえり(2)

聴取期限10/14
(約22分)


ニカイア信条(関川泰寛訳)
われらは信ず。唯一の神、全能の父、天と地、すべて見えるものと見えざるものとの創造者を。

われらは信ず。唯一の主イエス・キリストを。主は神の御(おん)独り子、よろず世に先立って、御父(みちち)より生まれ、光よりの光、真(まこと)の神よりの真(まこと)の神、造られずして生まれ、御父(みちち)と同質にして、万物は主にあって成れり。主はわれら人間のため、またわれらの救いのために天より降り、聖霊により、おとめマリアより肉体をとり、人となり、われらのためポンテオ・ピラトのもとに、十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って三日目によみがえり、天に上り、御父(みちち)の右に座したまえり。生ける者と死ねる者とを審(さば)くために、栄光をもって再び来たり給う。その御国は終わることがない。

われらは信ず。主にしていのちを与える聖霊を。聖霊は、御父(みちち)と御子(みこ)より出で、御父(みちち)と御子(みこ)と共に礼拝せられ、あがめられ、預言者を通して語られる。
われらは信ず。唯一の、聖なる、公同の使徒的教会を。われらは、罪の赦しのための唯一の洗礼に同意を表す。われらは、死人のよみがえりと来たるべき世の生命(いのち)とを待ち望む。