讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

41.われらは信ず。唯一の、聖なる、公同の使徒的教会を(2)

元々ヘブライで「聖」という言葉は、分離するとか切断するという言葉でした。その言葉が新約聖書でも使われていて、「聖なるもの」というのは、神様によって選ばれた、ということであります。ですからただちに人間が道徳的に立派になったというような事ではないのです。…「聖なるもの」を私達が呼ばれる時はどこまで行っても神様ご自身に根拠があります。

 

カトウ:
旧約聖書だと、「聖絶」とかあるよね。皆殺し的な…。

 

ナカガワ:
現代人には躓きです。
とくに原理原則より中庸を重んじる、日本人にはちょっと馴染まないっていうか。
正直「何故、そこまで」って思ってしまう。

 

カトウ:
でも、不思議と、新約聖書だとちょっとニュアンスが違って、「清く、正しく」的な?

 

ナカガワ:
あるある。いわゆる「クリスチャン」のイメージ。(実際は違うけれど!)
でも、教会員同士助け合って、イエス様の愛に根ざした生き方をする感じで、僕らでもちゃんと取り組めるような感覚があるよね。旧約の「聖」だとちょっと無理だけど…。

 

カトウ:
でも、今日の関川先生のお話ってどっちかって言うとその逆っていうことでしょ?
じゃあ、一体「聖」って何って?思っちゃう!

 

ナカガワ:
神さまに根拠があるって先生は言ってるよ。

 

カトウ:
神さまに根拠かあ…。

ピカーン!それって十字架のイエス様のことだよ。(いつも同じパターンだけれど。)
だって、僕たちの信仰っていうか、神さまを神さまとしてどこで知ったのは、イエス様の十字架でしょ。それって根拠でしょ。

 

ナカガワ:
イエス様の十字架が「分離」し、「切断」するっていうことになるのね。
確かに、罪の滅びから救い、死から命へって「分離・切断」だよね。

 

カトウ:
あとは、「世」からも!

イエス様が十字架にお架かりになる前に、弟子たちと過ごした最期で父なる神に祈られたあの言葉が印象深いなあ。

「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。」(ヨハネ17:14)

 

ナカガワ:
そうだね。クリスチャンは、キリストの所有っていう意味だものね。
だから、道徳的な基準とは全く別なもので、まさに聖別―分離せよ!ということなのかも知れないね。

皆さんはどう思われますか?
「聖」って、どうしても僕たちのイメージになっちゃいがちですよね。
ぜひ、放送を通して、ご一緒に神さまに尋ね求めたいと思います。「聖ってなんですか?」って。

 


讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)
関川泰寛(東京神学大学教授、日本基督教団大森めぐみ教会牧師)
お相手:吉崎恵子

41 われらは信ず。唯一の、聖なる、公同の使徒的教会を(2)

聴取期限1/20
(約22分)


ニカイア信条(関川泰寛訳)
われらは信ず。唯一の神、全能の父、天と地、すべて見えるものと見えざるものとの創造者を。

われらは信ず。唯一の主イエス・キリストを。主は神の御(おん)独り子、よろず世に先立って、御父(みちち)より生まれ、光よりの光、真(まこと)の神よりの真(まこと)の神、造られずして生まれ、御父(みちち)と同質にして、万物は主にあって成れり。主はわれら人間のため、またわれらの救いのために天より降り、聖霊により、おとめマリアより肉体をとり、人となり、われらのためポンテオ・ピラトのもとに、十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って三日目によみがえり、天に上り、御父(みちち)の右に座したまえり。生ける者と死ねる者とを審(さば)くために、栄光をもって再び来たり給う。その御国は終わることがない。

われらは信ず。主にしていのちを与える聖霊を。聖霊は、御父(みちち)と御子(みこ)より出で、御父(みちち)と御子(みこ)と共に礼拝せられ、あがめられ、預言者を通して語られる。
われらは信ず。唯一の、聖なる、公同の使徒的教会を。われらは、罪の赦しのための唯一の洗礼に同意を表す。われらは、死人のよみがえりと来たるべき世の生命(いのち)とを待ち望む。