讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

49.みなさまからのご質問にお答えして(1)

リスナーの方からのご質問
「プロテスタントの信仰は『聖書に立つ信仰』だと聞きますが、なぜ『信条に立つ信仰』と先生はおっしゃるのですか?」
「私の教会は信条を礼拝で告白しません。なぜ教会のみなさんとそうする必要があるのですか?信条を告白しない教会は良くないのですか?」

 

関川:
「プロテスタント教会が『聖書のみ』だからといって、信条を捨てたというのは誤りです。聖書という規範に導き出された信仰の言葉を、プロテスタントは重んじてきたんです。」

 

吉崎:
「そうなんですね。では、『自分は、礼拝の中で信条を重んじない教会に行っている』と仰っている方には…」

 

関川:
「でも、そういう教会に行っているのが悪い訳では一切無いと思います。」

 

吉崎:
「え!?『信条が無かったら教会は成り立たない』って仰ってたじゃないですか!」

 

関川:
「そうですね(苦笑)。
でも、礼拝で言わないからといって、信条を無視している訳ではないと思うのです。
つまり、伝えられてきた信仰が、その背後にある。自覚していなくても、牧師はその信条によって伝えられてきた信仰のもとに聖書を語り、礼拝を行っているでしょう。
あるいは、洗礼式にはやはり信条の言葉を使っていると思います。」

 

吉崎:
「そうですよねぇ、父なる神・子なるキリスト・聖霊なる神を信じることが無くて、洗礼なんて無いですものね。」

 

関川:
「でも、私はやはり、礼拝の中で信条を用いたら良いと思います。
ローマの信徒への手紙10章9節には、『口でイエスは主であると公に言い表し』とありますが、信仰というものは決して、個人の内面に秘められているものではないのです。
言い表されて、共同体のことばになるわけです。」

 

吉崎:
「この聖書の言葉は、『個々の人が』キリスト者になる時にその信仰を言い表すことを言っているのだと受け止めていましたけど、でも信条というのは、『共同体として』繰り返し告白する言葉なんですね。」

 


讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)
関川泰寛(東京神学大学教授、日本基督教団大森めぐみ教会牧師)
お相手:吉崎恵子

49 みなさまからのご質問にお答えして(1)

聴取期限3/16
(約22分)


ニカイア信条(関川泰寛訳)
われらは信ず。唯一の神、全能の父、天と地、すべて見えるものと見えざるものとの創造者を。

われらは信ず。唯一の主イエス・キリストを。主は神の御(おん)独り子、よろず世に先立って、御父(みちち)より生まれ、光よりの光、真(まこと)の神よりの真(まこと)の神、造られずして生まれ、御父(みちち)と同質にして、万物は主にあって成れり。主はわれら人間のため、またわれらの救いのために天より降り、聖霊により、おとめマリアより肉体をとり、人となり、われらのためポンテオ・ピラトのもとに、十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って三日目によみがえり、天に上り、御父(みちち)の右に座したまえり。生ける者と死ねる者とを審(さば)くために、栄光をもって再び来たり給う。その御国は終わることがない。

われらは信ず。主にしていのちを与える聖霊を。聖霊は、御父(みちち)と御子(みこ)より出で、御父(みちち)と御子(みこ)と共に礼拝せられ、あがめられ、預言者を通して語られる。
われらは信ず。唯一の、聖なる、公同の使徒的教会を。われらは、罪の赦しのための唯一の洗礼に同意を表す。われらは、死人のよみがえりと来たるべき世の生命(いのち)とを待ち望む。