讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

50.みなさまからのご質問にお答えして(2)

リスナーの方からのご質問
「『ただ神の恵みにより、信仰へと導かれる』ということと、『私たちの意志』との関係は?先生は、両方必要だとおっしゃっているように思うのですが、相反するように思うのです。」

 

関川:
「私も実は、洗礼を受ける前後にこれを考えました。
信じようとすると、自分を空にしなくちゃいけない。でも、『空にしようとしている自分』が邪魔になるから、それを否定しようとすると、また『否定しようとする自分』が出てきちゃう。」

 

吉崎:
「まさに『いたちごっこ』ですね。」

 

関川:
「大学生の時、それを加藤常昭先生に質問してみたことがあるんです。加藤先生は覚えてないと思いますけど・・・。
先生は『受けたいんだったら求めればいいんだよ』っておっしゃって、『分かってくれないのかな』と思ったんですが(笑)、考えてみたら、聖書の中にそういう人が出てくるんですよね。

カナンの女性(マタイ15:21〜28)は、娘が病気でイエス様のところに来る。すると、弟子たちと主イエスが素気なく対応する。それでも必死に食い下がって、イエス様に自分の娘を癒して欲しいと言うと、主イエスは『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように』と言う。

このカナンの女性の信仰というのは、求める信仰ですよね。必死に。
その時、私が空になっているとかは、関係ない。
それを超えているような恵みなんじゃないかと思うんです。」

 

吉崎:
「だから、『求めよ、さらば与えられん』!」

 

関川:
「ですから、ご質問を寄せて下さった方は、一生懸命探求しようとしているってことはよくわかるんだけれども、実は、まだ探求していないところがあるのかもしれないんです。」

 

吉崎:
「それは?」

 

関川:
「神様の恵みが本当に必要だと思ったら、自分が虚しくなるかどうかなんて考えないで、さっきのカナンの女性のように、すがりつくわけですよ。
そこで初めて、自分が本当に虚しい存在だと気付かされる。だから、恵みをいっぱい受けられるわけです。」

 

吉崎:
「『自分は空だ』『未だそうじゃない』と思っているうちは、まだ自分を見ている・・・」

 

関川:
「そう。だから、僕も加藤先生に伺った時に、『受けたいんだったら求めればいいんだよ』って言われたのは、そういうことだったんだと思うんです。

『自分が今立っているところ』に留まっている限りは、見えない世界があるんです。
信仰は、観念の世界じゃないんです。
一歩、自分が出てみる。それは、どうしても必要になると思います。」

 


讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)
関川泰寛(東京神学大学教授、日本基督教団大森めぐみ教会牧師)
お相手:吉崎恵子

50 みなさまからのご質問にお答えして(2)

聴取期限3/23
(約22分)


ニカイア信条(関川泰寛訳)
われらは信ず。唯一の神、全能の父、天と地、すべて見えるものと見えざるものとの創造者を。

われらは信ず。唯一の主イエス・キリストを。主は神の御(おん)独り子、よろず世に先立って、御父(みちち)より生まれ、光よりの光、真(まこと)の神よりの真(まこと)の神、造られずして生まれ、御父(みちち)と同質にして、万物は主にあって成れり。主はわれら人間のため、またわれらの救いのために天より降り、聖霊により、おとめマリアより肉体をとり、人となり、われらのためポンテオ・ピラトのもとに、十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って三日目によみがえり、天に上り、御父(みちち)の右に座したまえり。生ける者と死ねる者とを審(さば)くために、栄光をもって再び来たり給う。その御国は終わることがない。

われらは信ず。主にしていのちを与える聖霊を。聖霊は、御父(みちち)と御子(みこ)より出で、御父(みちち)と御子(みこ)と共に礼拝せられ、あがめられ、預言者を通して語られる。
われらは信ず。唯一の、聖なる、公同の使徒的教会を。われらは、罪の赦しのための唯一の洗礼に同意を表す。われらは、死人のよみがえりと来たるべき世の生命(いのち)とを待ち望む。