旧約聖書のこころ―詩編―(再)


詩編 第1編(1)

いかに幸いなことか―
これは、
”本当に幸いに生きている人を見た人の、喜びの声”です。 by雨宮神父

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<今日のポイント>

二度繰り返される“教え”1/いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
2/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3/その人は流れのほとりに植えられた木。/ときが巡りくれば実を結び/葉もしおれることがない。/その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4/神に逆らう者はそうではない。/彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。/5/神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
6/神に従う人の道を主は知っていてくださる。/神に逆らう者の道は滅びに至る。


この“教え”は、律法とも掟とも訳すことのできる“トーラー”という言葉で、矢を放つといった意味の動詞から派生した名詞。
つまり、神が私たちのために放った矢。それが、なぜ「幸い」?

 

旧約聖書のこころ―詩編―(再)
雨宮 慧
(カトリック・東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授)

1 詩編 第1編(1)

聴取期限4/17
(約22分)

担当者トマ子のつぶやき

この詩編の人って、私とは別世界の修道士のような人を思い浮かべていたんですよね。
たとえば座禅を組み、目をつむって、ひたすらに主の教えを唱え続けている…ような。

でも、雨宮神父のお話は、全然違っていました。
「新共同訳では、その人は流れのほとりに植えられた木、とあるけれど、原文の意味では、荒れ野から流れのほとりに移植された木」だと。

荒れ野にいたのか〜!この木…じゃなくて人!
自分がどこに向かって歩めばいいのか分からない、荒れ野の中で彷徨い、渇いて生きることを味わってきた人。
全然違っていました!

荒れ野を知っている人、だからこそ、主の放った矢に本当の喜びを見出した。
う〜ん、これってわたしたちの姿なのかも、と感じます。