詩編 第1編(1)
いかに幸いなことか―
これは、
”本当に幸いに生きている人を見た人の、喜びの声”です。 by雨宮神父
***
<今日のポイント>
この“教え”は、律法とも掟とも訳すことのできる“トーラー”という言葉で、矢を放つといった意味の動詞から派生した名詞。
つまり、神が私たちのために放った矢。それが、なぜ「幸い」?
旧約聖書のこころ―詩編―(再)
雨宮 慧(カトリック・東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授)
1 詩編 第1編(1)
聴取期限4/17
(約22分)
この詩編の人って、私とは別世界の修道士のような人を思い浮かべていたんですよね。
たとえば座禅を組み、目をつむって、ひたすらに主の教えを唱え続けている…ような。
でも、雨宮神父のお話は、全然違っていました。
「新共同訳では、その人は流れのほとりに植えられた木、とあるけれど、原文の意味では、荒れ野から流れのほとりに移植された木」だと。
荒れ野にいたのか〜!この木…じゃなくて人!
自分がどこに向かって歩めばいいのか分からない、荒れ野の中で彷徨い、渇いて生きることを味わってきた人。
全然違っていました!
荒れ野を知っている人、だからこそ、主の放った矢に本当の喜びを見出した。
う〜ん、これってわたしたちの姿なのかも、と感じます。