旧約聖書のこころ―詩編―(再)


詩編 第6編(2)

死の国へ行けば、
だれもあなたの名を唱えず
・・・だれもあなたに感謝をささげません。

“これは、旧約聖書に強く流れている考え方を表現しています。”by雨宮神父

***

<今日のポイント>

“死後”への考え方/詩編6編6節/6節:死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず→ゼーヘル:思い起こす、心に留めている、唱える/陰府に入れば だれもあなたに感謝をささげません。→ヤーダー:感謝する、罪/信仰を告白する/×死ねば、喋ることができない。/◯死ねば、喋りたくても、喋ることのできるような御業に出会うことがない。/旧約の考え方:神は死後の世界に対して何もできない。→だから、今こそ、この地上で神に出会う必要がある。


“だれもあなたの名を唱えず”というと、
死んだら、私たちは話せなくなってしまうってこと?と思ったのですが、
そうではないのだとか。
むしろ、“神様”の働きを表しているとのこと!
そこにはどんな考えが込められているのでしょうか。

 

旧約聖書のこころ―詩編―(再)
雨宮 慧
(カトリック・東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授)

8 詩編 第6編(2)

聴取期限6/5
(約23分)

担当者トマ子のつぶやき

“神は死後の世界に対して何もできない”
・・・え〜、旧約時代の人たちはそんなふうに信じていたなんて〜!
死んだら天国で神と会える、ではないんですね。

そして神父様は、
“だから、今ここで神に出会う必要がある。”
と詩編作者の心を解き明かし下さいました。
この詩篇の根っこには、“今、あなたと出会いたい”そんな神への強い求めがあったんですね。
・・・ただ、つい“私はこんなに真っ直ぐ神を求めることはできないかも”
と思ってしまいました。

でも、この詩編では、嘆きと求めが深くなるところで、神への信頼もずっと深くなっていて、
もう作者は救われているかのよう。
もしかして、神が待っていてくださるのは、そういう場所なのでしょうか?
嘆きと求めを深めていくなら、
“わたしが安心して神を信頼できる”範囲を超えないといけないはず・・・。
とても恐ろしいような、でも、その底に神がいてくださるのでしょうか。