詩編 第15編(1)
主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り
聖なる山に住むことができるのでしょうか。
“この詩編は、「神殿入場祭儀」との関わりが
実に大切です。”by雨宮神父
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<今日のポイント>
詩編15編は、一見シンプルな「問いと答え」の詩編に見えますが、
そうではないのだとか・・・。
背景には、神殿入場祭儀という祭儀があり、
これが大切なのだ、と!
詩編と祭儀、ここにどんな関わりがあるのでしょうか。
旧約聖書のこころ―詩編―(再)
雨宮 慧(カトリック・東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授)
15 詩編 第15編(1)
聴取期限7/24
(約23分)
「神殿の門に到着した者たちが、興奮の中で、
“神殿に入れるのは誰か”と問いかけます。
すると内側から、祭司がその問いに答え、祝福を与えるといった祭儀です。」
なるほど〜。それが“神殿入場祭儀”、
詩編15編1節はその問いかけ、ということなんですね。
でも、この答えがとても引っかかります。
それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。
・・・
舌には中傷をもたない人。
友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
“ついに神様に見えることができる!”
そんな興奮と喜びの中で、この答えを聞いたら・・・。
私には、むしろ悔い改めです!
私も、いや誰も、神殿に入る資格はないと実感させられます。
神様に見えることは、私たちの一番の喜びのはず。
その、あと一歩の場所で与えられるのが、この答えとは!
昔も、今も、まず主の前に砕かれよ、そう聖書は伝えたいのでしょうか。