旧約聖書のこころ―詩編―(再)


詩編 第16編(1)

ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。
わたしは・・・彼らの神の名を唇に上らせません。

“ここでは、偶像礼拝は無意味だと宣言しています。”by雨宮神父

***

<今日のポイント>

“詩編作者”についての解釈ーそれぞれの訳の立場ー/詩編16編3節/1,かつての偶像礼拝者・・・フランシスコ会訳/地上の〈聖なる者ら〉(=偶像)/地上の〈聖なる者ら〉(=偶像)/2,以前から真の神に従っている人・・・聖書協会訳/新改訳/地にある聖徒は、/すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。/3,1、2どちらの解釈も可能・・・新共同訳/この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。


偶像礼拝者には苦しみが加わる!
・・・でも、そう言う詩編作者自身は一体どんな人?
つい、そう聞いてしまいたくなります。
どんな背景から、詩編作者はこの言葉を語ったのでしょうか。

 

旧約聖書のこころ―詩編―(再)
雨宮 慧
(カトリック・東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授)

17 詩編 第16編(1)

聴取期限8/7
(約23分)

担当者トマ子のつぶやき

詩編作者についての解釈は3つもあるんですね〜。
その中でも、過去に偶像礼拝者だったとするフランシスコ会訳に、
あれ?と思う箇所がありました。

すべてわたしの喜びであった〈力ある者ら〉(=偶像)

偶像は「私の喜び」だったんだ、と!
・・・作者は、どんな思いでこの詩を歌ったのでしょう。
かつて私を喜ばせてくれたものが、
実は空しい偶像にすぎなかったなんて。
なんだかやるせない思いになってしまいそうです。

でも、作者は、
その名を口にすることもしない、とキッパリ宣言しています。
偶像からくる喜びを名残惜しむのではなく、
神様を求めて、前を向いて・・・!
これはきっと、真の神様に出会ったからこそ。
そう思うと、この詩編が
「偶像を断ち切って、これからは真の神様と生きていきたい」
そんな力強い信仰の告白にも聞こえてきました。