旧約聖書のこころ―詩編―(再)


詩編 第26編(1)

わたしは完全な道を歩いてきました。

“ここでの完全さは、倫理的な完全さではないかもしれません。”by雨宮神父

***

<今日のポイント>

どのような“完全さ”?/詩編26編1-3節/◇命令形での表現を除くと・・・/(命令形:主よ、あなたの裁きを望みます。)/わたしは完全な道を歩いてきました。/主に信頼して、よろめいたことはありません。/(命令形:主よ、わたしを調べ・・・試してください。)/あなたの慈しみはわたしの目の前にあり/あなたのまことに従って歩き続けています。


「わたしは完全な道を歩いてきました」と
はっきり言えるなんて・・・。
この詩編は、自信のある信仰者だけが
唱えることのできる詩編なのでしょうか。
そんな、まさかです!
倫理的な完全さでないなら、この言葉はどういう意味なのでしょうか?

 

旧約聖書のこころ―詩編―(再)
雨宮 慧
(カトリック・東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授)

19 詩編 第26編(1)

聴取期限8/21
(約23分)

担当者トマ子のつぶやき

どういうこと?と思いつつ
神父様のおっしゃる通り、1-3節の命令形の言葉を除いて読むと・・・
お〜なんと!
主に信頼する詩編作者の姿が浮かんできました。

それにしても、
「わたしは完全な道を歩いてきました」と聞いて、
どうして単に“自分の完全さを誇っている”と思ってしまったのでしょう。
もしかして、実は“自分の信仰”を誇る思いがあるから?
・・・きっとそうです。
あぁこれが私の傲慢さなんだ、と心底がっくりしました。

けれどお話を聞き、
詩編作者や、私がどんな人間なのかよりも、「主」が一番大切。
主に信頼するなら、完全な歩みへ招いて下さる、
そう語っていただいた気がしました。
こんな私の前にも、主がいてくださるのですね・・・。
主よ、どうか“私の信仰”を捨てさせて下さい!
そして、ただあなたに信頼して歩むことができますように・・・。