詩編 第26編(1)
わたしは完全な道を歩いてきました。
“ここでの完全さは、倫理的な完全さではないかもしれません。”by雨宮神父
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<今日のポイント>
「わたしは完全な道を歩いてきました」と
はっきり言えるなんて・・・。
この詩編は、自信のある信仰者だけが
唱えることのできる詩編なのでしょうか。
そんな、まさかです!
倫理的な完全さでないなら、この言葉はどういう意味なのでしょうか?
旧約聖書のこころ―詩編―(再)
雨宮 慧(カトリック・東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授)
19 詩編 第26編(1)
聴取期限8/21
(約23分)
どういうこと?と思いつつ
神父様のおっしゃる通り、1-3節の命令形の言葉を除いて読むと・・・
お〜なんと!
主に信頼する詩編作者の姿が浮かんできました。
それにしても、
「わたしは完全な道を歩いてきました」と聞いて、
どうして単に“自分の完全さを誇っている”と思ってしまったのでしょう。
もしかして、実は“自分の信仰”を誇る思いがあるから?
・・・きっとそうです。
あぁこれが私の傲慢さなんだ、と心底がっくりしました。
けれどお話を聞き、
詩編作者や、私がどんな人間なのかよりも、「主」が一番大切。
主に信頼するなら、完全な歩みへ招いて下さる、
そう語っていただいた気がしました。
こんな私の前にも、主がいてくださるのですね・・・。
主よ、どうか“私の信仰”を捨てさせて下さい!
そして、ただあなたに信頼して歩むことができますように・・・。