詩編 第34編(4)
主は打ち砕かれた心に近くいまし…
“これは神の前にへりくだる敬虔な者、というイメージではないように思います。” by雨宮神父
<今日のポイント>
神の前に砕かれた者、というと
確かに、神の前に頭を垂れてへりくだるイメージです。
でも、本当はそうではないのだとか・・・!
神父様、一体どんな意味が隠されているのですか?
今回、私はずっと思い違いをしていた!と気付かされました。
“苦しみの中で神の近さを知れるかどうか”
こういうことを語られる度、
“苦しい時でも必死で耐えて、聖書を読んで、
ちゃんと神様を求めないとだめなんだ”って思っていたんです〜。
でも、この信仰者は、ぐしょぐしょに砕かれて意気消沈しているんですよね。
え〜どういうこと?と思いました。
でも、そこで思ったのは、
意気消沈するって実はできないな、ということでした。
今はない望みにすがっていたり、
内心文句があったり、安易な救いを求めていたり。
自分の中にうずく望みを捨て去って、へたりこんで、神様だけを見つめること…
あぁ私にはできないなって…。
だから実は、意気消沈するって神様の恵みなのかもしれません。
この信仰者も、ぐしょぐしょに砕かれていますが、
それは、神様の近くにいて、
救いに満たされているからかも、と。
それなら、私ももっと神様に近づきたい、
そして、自分の鎧を脱ぎたい!そう思いました。
旧約聖書のこころ―詩編―(再)
雨宮 慧(カトリック・東京教区司祭、上智大学神学部名誉教授)
32 詩編 第34編(4)
聴取期限11/20
(約23分)