讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

34.われらは信ず。主にしていのちを与える聖霊を(2)

例えばイエス様を指し示す補助的な役割をしているのが聖霊だ。あるいは、父なる神様のことを本当に知るための何か認識的な働きをしているのが聖霊だ…そういうイメージがあるかもしれないのですけどね。もちろん聖霊というのは、助け主として送られる、弁護者として送られる、とヨハネ福音書に出てきますから、そういう側面がある。背後に隠れていてイエス様のところに私たちを連れて行ってくれるっていう、そういう側面が確かにあると思うのだけど、父と子と聖霊の神を信ずると言った時に、聖霊というのは、父と子と同じ位格、実態を持っている。それを曖昧にした形で、ただ隠れた聖霊というものを考えていると、いつの間にか聖霊の信仰というのが内面化されてしまったり、主観的なものになってしまうと思います

 

カトウ:
正直に言うと、聖霊様は影薄い、デス。
助け主って、ヘルパーさんっていう感じだから?

 

ナカガワ:
ヘルパーさんって、ちょっと…。

でも、なんでだろう?
父と子よりは一段下っぽい、この感覚って。

 

カトウ:
あっ!またまた気が付きました!
ここで質問です。

Q.教会が掲げているものはなーんだ?
チッチッチッ…

 

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讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

33.われらは信ず。主にしていのちを与える聖霊を(1)

キリスト教を理解する時に、イエス様の時代が純粋として、三世紀・四世紀になるとすぐに堕落したと言うのは決して正しくありません。イエス様に出会った人たちが色んな事を考えながら、また、色んな教えに出会いながら…時代の嵐の中をかいくぐってキリスト教の信仰は伝えられているわけで、その先人たちの信仰の歩み、軌跡は無視することが出来ません。

 

カトウ:
えー、でも教会でも何でも、段々とダレてくるってあるよね

 

ナカガワ:
あるよね。いわゆる「形骸化」ってやつね。
伝言ゲームみたいに、伝えていく中で、中身が代わっちゃう的に。

 

カトウ:
そうそう。
で、教会のスローガンはいつも「原点に戻れ!」
とくにプロテスタント教会は、宗教改革とか原始教会とかが原点だって。

 

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讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

32.生ける者と死ねる者とを審くために栄光をもって再び来たり給う。その御国は終わることがない(2)

キリスト者になったからといって、苦悩から全部、解き放たれるわけではない。あるいは死の恐れから、解放されるわけではない。しかし、キリスト者になったということは、そういう自分が生きている現実が、耐え難い曖昧さをなお持っているけども、それでも、希望を失うことがないという…それが、再臨の信仰。歴史というのは、耐え難い曖昧さを永遠に続けていくのではなくて、必ず終わる。しかも、イエス様が必ず来て下さるという、そういう確信の中で生きるということだと思いますね。

 

カトウ:
「耐え難い曖昧さ」って何???

 

ナカガワ:
この世界や自分の存在する意味が分からないとか?

 

カトウ:
ピンと来ないよ〜!
特に分からなくても生きていけるし。

 

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