讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

29.天に上り、御父の右に座したまえり(2)

天に上げられ神の右に座しておられるイエス様の姿と、イエスは主であるっていう2つのことはとても密接に結びついていると思います。つまりイエスは主であるというのは、私たちの願いの延長上に主であるイエス様があるんじゃない。天に上げられるということは、もう私たちが見ることもできないし、私たちが操作することもできない方。それが、イエス様なんです。

 

カトウ:
「天に上げられたイエス様」=私たちが見ることもできず、操作することもできない方=イエスは主であるってこと?

 

ナカガワ:
そういうことになるね。

 

カトウ:
当ったり前じゃん!って思ったけれど、「イエスは主」と言うとき、こんな風に思ったことは殆どありません。
ガーン。当たり前じゃなかった…。

 

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讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

28.天に上り、御父の右に座したまえり(1)

「イエス様と同じ時代に生きていたらそれは私達から見れば羨ましいんだけれども、必ずしもイエス様を本当に理解することが出来るかといえばそうもいかない。ここに私達の持っている悲しさのようなものがありますね。見るもの、触れるもの、それは確かに尊いのですが、案外私達の誤解だけを増やしてしまうこともあると思います。」

 

カトウ:
僕はそれでも、イエス様と会いたい!
今も、イエス様と出会っているけれど、もっと会いたい!

 

ナカガワ:
…。イエス様が大好きなのね。
でも、その出会いは「見えるものや触れるもの」が一番大切なの?

 

カトウ:
違うかもしれない。
だって、十字架のイエス様は一人で祈るとき、聖書の言葉に心開くとき、出会ってくださるから。

 

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讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

27.葬られ、聖書に従って三日目によみがえり(2)

「毎年、神は自然の秩序の一部として葡萄酒をおつくりになります。すなわち、水と土壌と日光という素材を果汁に変えうる植物的有機体を創造なさることによって。その果汁が適当な条件のもとで、やがて葡萄酒になるのです。ですからある意味では、神はたえず水を葡萄酒に変えておられるわけです。なぜなら葡萄酒はすべての飲料と同じく、もとはと言えば水にほかならないからです。たった一度、ある年のあるとき、受肉の神はその過程を短縮なさり、一瞬にして葡萄酒をおつくりになりました。この場合には、その水の器として植物の繊維でなく土器をお用いになったのです。この場合、彼は神としてつねになさっていることを特定の場でなさるために、そうしたものをお用いになったのでした。」(C・S・ルイス)

 

カトウ:
これってイエス様が水瓶の水をぶどう酒に変えたカナの婚礼の奇跡のことだよね?
そして、今日のニカイア信条は前回に続いて「葬られ、聖書に従って三日目によみがえり」ってことは、もしや「奇跡」つながりってことなの??

 

ナカガワ:
うーん、イエス様の十字架と復活は奇跡って言えば奇跡なんだから間違いではないはずなんだけれども、どうしても違和感があるよね。

 

カトウ:
そうだよ。
今まで半年間ニカイア信条を学んできて、いつもいちばん大切なところにイエス様の十字架と復活があったんだから、単なる奇跡じゃありません。
スーパー奇跡です。

 

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