讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

30.天に上り、御父の右に座したまえり(3)

…たしかに、私たちが礼拝を捧げますが、本当の礼拝の主体は、私たちを呼び集めてくださる神であり、神の右におられる高挙された主イエス・キリストです。キリスト教会は、過去の偉人であるイエス・キリストを拝むために礼拝をしているのではありません。あるいは、模範的な教師である主イエスに学び、そのみあとに従うために、ただイエス・キリストを思い起こしているのでもありません。まさに今ここに現臨される甦り主を、御言葉と聖礼典によって、目の当たりに示されるのであります。

 

カトウ:
過去の偉人や教師を目標にして、皆でガンバロー!的ならわかりやすいんだけれど、礼拝で甦りの主がいつも目の当たりに示されているかと言えば…。
ナカガワさんのとこはどう?

 

ナカガワ:
えーと、…。たぶん?

 

カトウ:
甦りの主をして目の当たりに示されるって、具体的にどうするの?

 

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讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

29.天に上り、御父の右に座したまえり(2)

天に上げられ神の右に座しておられるイエス様の姿と、イエスは主であるっていう2つのことはとても密接に結びついていると思います。つまりイエスは主であるというのは、私たちの願いの延長上に主であるイエス様があるんじゃない。天に上げられるということは、もう私たちが見ることもできないし、私たちが操作することもできない方。それが、イエス様なんです。

 

カトウ:
「天に上げられたイエス様」=私たちが見ることもできず、操作することもできない方=イエスは主であるってこと?

 

ナカガワ:
そういうことになるね。

 

カトウ:
当ったり前じゃん!って思ったけれど、「イエスは主」と言うとき、こんな風に思ったことは殆どありません。
ガーン。当たり前じゃなかった…。

 

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讃美に生きる―ニカイア信条に学ぶ(再)

28.天に上り、御父の右に座したまえり(1)

「イエス様と同じ時代に生きていたらそれは私達から見れば羨ましいんだけれども、必ずしもイエス様を本当に理解することが出来るかといえばそうもいかない。ここに私達の持っている悲しさのようなものがありますね。見るもの、触れるもの、それは確かに尊いのですが、案外私達の誤解だけを増やしてしまうこともあると思います。」

 

カトウ:
僕はそれでも、イエス様と会いたい!
今も、イエス様と出会っているけれど、もっと会いたい!

 

ナカガワ:
…。イエス様が大好きなのね。
でも、その出会いは「見えるものや触れるもの」が一番大切なの?

 

カトウ:
違うかもしれない。
だって、十字架のイエス様は一人で祈るとき、聖書の言葉に心開くとき、出会ってくださるから。

 

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